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三分の理。盗作問題2016その3

誰にだって三分の理はある。
メールにあったように、たとえ構図やアイディアがそっくりでも
本人がトレース(盗作)ではないと主張するのなら、それは仕方がない。事実は本人しか知らないことなのだ。
しかし、webでのそれはナショナルコンセンサスなのだろうか?
わたしはいくつかの投稿サイトなどを当たってみた。
すると、とある投稿サイトの「事典」で、パクリについてこうあった。
要約すると、
誰だって何かから影響を受けているのだ、それまでパクリとなったらなにも創れない、元ネタへのリスペクトをきちんと現せばいいのだ。リスペクトがないから叩かれるのだ。
といったような余りにもアバウトなことが書かれている。
以下は引用である。

・・・・・
「相手の作品の良いところを吸収して自分の作品として昇華していく」という創作者にとって欠かせない姿勢やプライドもないままに、 
盗んだ作品を利用して自分の実績であるかのように振る舞うことに対する批判からきている。 」
「そして創作活動をする側は影響を受けた作品に対する敬意を常に持って、自分の個性と作風に昇華できるよう、謙虚かつ誠実な姿勢で創作活動に励みましょう。」
・・・・・ 

むむ、メールの作者がこれまでパクったとは思わないが、ほぼ論旨は同じだった。
それでいいのか?みんなこの定義が正しいと思っているのだろうか?
インターネットが普及したこの時代、著作権問題は確かに難しい。
投稿サイトの「事典」に拠るだけでなく、
コンテンツクリエイターであれば、きちんと勉強すべきとわたしは思う。
投稿サイトなどで作品を公開している人は、
こういった本を読んで欲しい。

この本ではいろいろな例を取り上げて、
表現とアイディアの違いなどを解説してくれている。
また、「偶然似た」についても、判例を上げて説明している。
単に「リスペクトの有無」では測れないのだ。
それともあれほどの盗作でも、「リスペクトがあればいい」と盗作者は思っていたのだろうか?
それ以上に、わたしみたいに盗作事件に巻き込まれると、本当に身も心もすり減らされる。
わたしは再燃した盗作問題についてきちんと書き表した方がいいと感じ始めた。 
それにつけては、以前「みの」と一緒に同人誌を出したことのあるAさまに、
やりとりしたメールの内容をブログに書いてもかまわないか、と許可を取ることにした。
投稿サイトからメッセージを送ったところ、すぐに返事が来た。
Aさまはまだ「みの」との事件が終わっていないことにほとほと呆れていた。
いや、わたしだってそうなんですけどね。
そして、やはりわたしのブログを読んでも書き方が断片的で全貌がわからないので、
このさい、HPなどで誰もが読めるようにすべてをきちんと載せて欲しい、
自分とのやりとりは書いてもかまわない,と許可をくださった。
そしてなにより気になるのは、
謝罪文に出ているのはわたしの名前だけであり、
2年前に発覚したほかの盗作した画像などについては
「ただ似ただけ」と思っているのだろうか、
ということだった。もしそうなら、今までパクリとされていた件については
盗作とは思っていないことになるからだった。
 わたしにとっては、自分の小説については終わったことであり、
もうこれ以上、「みの」と関わりたくはなかった。
しかし、わたしがすべてをwebに残しておこうと思ったのは、
とある記事を読んだからだった。
それはamazonのセルフパブリッシングプラットフォームKDPで、盗作が横行しているという記事だった。
出版社や編集者を通さない、自主出版による作品の配信、それはそれで新たな才能の可能性を広げるもので、
わたし自身も積極的にやっている。
しかし、他者の目が入らないことで盗作が看過されてしまうリスクがあることに、
今までさほど誰も言及してこなかったし、わたし自身もそこまで考えたことはなかった。
記事はここ。
要約すると、ある日、ロマンス小説などを書いているRachel Ann Nunesさんが彼女の読者からメールを受け取る。それは彼女の小説が丸ごと盗作されて別の題と別のキャラクターの名前で、amazonのKDPから出版されているというものだった。
彼女の「A Bid of Love」は1998年に出版され、売れゆきはよく、絶版になるまで、続巻が二作出たとのことだった。(なんか、既視感があるわ~~)
Nunesさんが盗作したと思われる作家にコンタクトを取ったところ、もっと恐ろしい事が起こった、と記事は伝えている。
謎のアカウントが多数出現し、facebook上で彼女のキャラクターをdisり始め、さらにAmazonの彼女の著者ページには、敵意のある星一つレビューが溢れたのだ。
現在、NunesさんはクラウドファンディングGoFoundMe Pageの助けを借りて、「著作権侵害相手に闘う私たちを助けて」として訴訟費用を募り、相手方に15万ドルの訴訟を起こしているとのことだ。
むむ、GoFoundMeみたいなクラウドファンディングでもいいし、
そういった訴訟を助ける組織があったらいいな。
わたしはいい弁護士先生に巡り会うまで、結構大変だったんだっけ。
そこで思ったのだった。
ほんと、こんな事件に巻き込まれたら、どうしたらいいか判らなくなるよね。
だったら、わたしに起こったすべてのことを明らかにして、
盗作者と争うときには、どんな心構えが必要か、
そしてどんな気持ちで闘わねばならないか、
どれほど気持ちが萎えるか、
それらすべてを書き残そう。
そう思ったのだ。
わたしは今、メールを送ってきた人に、
とある質問を投げかけている。
その答えが返ってくるかどうかは不明だ。
しかし、いずれにせよ、
2015年に再燃した盗作問題についてはこれからこのブログで明らかにしていくつもりだ。
 
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盗作とは。盗作問題2016 その2




さて、そもそも「盗作」とはなんなのだろうか?
昨今では「盗作」は「パクリ」と軽い言葉に置き換えられているが、盗作と著作権侵害を混同している人も少なからずいる。
著作権侵害は法的な言葉であり、わたしのように法に訴えようとした人間が使う言葉だ。
盗作はそれ以前、というか、裁判所で判断されるものではなく、よってマスコミやウェブなどで面白おかしく取り上げられ、祭りになることもある。
「盗作」の定義が難しいのも、読んだ(見た)人間の主観的判断に拠ることが多いからだ。

わたしの著書が盗作された事件のように、コピペのごとく誰がみてもほとんど同じ文章だったり、また盗作者本人が盗作を認めたりしなければ、著作権侵害が法的に認められることも希だ。

そのことについての議論は、
及びその後、
著者と批判者との間に起こった論争に詳しい。
特に、「〈盗作〉の文学史」はたいへん興味深い著書であったので、
ぜひ皆さんには読んでもらいたい。
今回、この問題を取り上げたのは、実は前回のブログ更新のすぐあとに、
とある人物から(その人物が誰かは察しのいいかたならわかるだろうが)
「あなたの盗作の定義が間違っている」とメールで指摘されたからだ。

メールはwebやブログに転載しないでくれとあったので、詳しくは書けないが、大まかに言うと、
「力量不足で構図や表情などが似てしまうことがある。
なぜならば、わたしは好きな作家さんの作品を何度も読み、1冊丸ごと模写して勉強するから」
「一度描いたことのあるポーズや表情は癖になって残る((だから上達のために模写した絵がすぐ出てきてしまう、わざと似せたのではない)」
とのことだった。
そして、わたしの作品に対しても
「生まれてから今までに読んだものが自分の血肉となって」いるのでは、と指摘があった。
つまり、誰だって多かれ少なかれ知らない間に似て(パクって)しまうこともある、それまで盗作と言われたくないと。
いや、「大好きだから」影響を受けた、というのはあるかもしれないが、
それと盗作とはまったく別物だ、とわたしは考えている。
わたしは自分の考えを公表することになんのてらいもないからここで描いておく。
さらに、影響を受けたものが知らない間ににじみ出てしまい、結果的に似ていても、つまりたとえ故意ではないにしてもそれはやはり盗作なのだ。
であるから、この人物が言うところの、
「何度も模写したから似て当然、似たのは仕方がない」
という言い訳は通用しない。
そのことに関しては、
最近ネットで話題になった「憂国」盗作事件でも明らかだ。
みなさんご存じだろうが、
韓国の女流作家の描いた作品が三島氏の「憂国」の盗作ではないかと、
同じ韓国の作家から指摘された事件だ。
当事者である女流作家は「読んだことはない」と初めは否定していたが、
のちに盗作を認めざるを得なかった。
そのさいは、やはり読んだ記憶はない、しかし、照らし合わせてみると似ていて、知らない間に読んだかも知れない、自分の記憶に自信がなくなった、つまりわざとではないが、似てしまった、といった弁明だった。
もちろん、たとえ盗作疑惑がかけられても、このように本人が否定することは可能だ。
「著作権侵害」であれば、法的かつ客観的な判断が下されるが、
「盗作疑惑」の段階であれば、本人に盗作の認識が全くなければそれを声高に主張すればいい。
ただし、「偶然似た」「いっさい見た(読んだ)ことはない」であれば、
周囲も納得するだろうが、
「何度も模写して練習したので、知らない間に似てしまった」は
「アウト~~」だろうとわたしは思う。この憂国盗作事件のように。
それがわたしの見解だ。
メールを送ってきた人物がさらにわたしに反論をするのなら、
そして自分の考えに自信があるのなら、
広く公開して意見を募ったらいい。
わたしは自分の意見をここに公開し、netiznの判断にゆだねる。

ただ、わたしの考えはほぼ世間の常識と思われるから、
もしメールの作者が、今後も
「好き作家さんの模写をたくさんしたために似ただけ」と主張するコンテンツをネットに上げ続ければ、
再び盗作wiki〈盗作画像に関しては前の記事に貼ってあります)などで検証されるに違いないから、
悪いことは言わない、やめたほうがいい。老婆の心で助言する。一歩譲って、ほんとうに偶然似ただけなら、堂々と反論するがよろし。
また、「過去にはそういうことをしたが、今はしていない」のならば、それでいい。わたしはもう何も言わないし、やっていないと信じよう。(いや、散々瞞されてまだ懲りないかって感じなんですけど、檜原まり子、性格は悪いが人はいいのだ)
ただし、ネット上で似ていると指摘された際に、わたしに言ったような言い訳をすると炎上は必至と覚悟すべきである。
そして上達のために模写するのは当然のこととして、その結果「下手だから似てしまうのは仕方がない」「一度描くと癖になって残る」などと言い訳せず、
「なるべく同じポーズや表情にならないように工夫する」ことが上達への道だと思う。あなたがクリエイターならば。
ピカソの名言「凡人は模倣し天才は盗む」はそういう意味だとわたしはとらえている。「盗む」とは、コピーできない何かのことなのだ。まあ、なにも天才になれとは言っていないのだけれど。
もう、ほんとうに自分の力で無理せず楽しく虹をやって欲しいよ。

また、この人物はわたしに対し「釈迦に説法」としてわたしが小説を書く場合は今まで読んだものすべてを蓄積して再構成しているのだから、わたしはこの人物と同じ事をしており、だからこそこの人物の気持ちがわかるだろうとあったが(これは釈迦に説法、ではなくて「同じ穴の狢」と言っているに等しい)
これに関しては、有名なマーク・トゥエインのジョークをここに記しておこう。

とある作家のもとに友人のマーク・トゥエインから手紙が来た。そこには、
「あなたが最近出版した著作の一語一句はわたしの手元にある本にすべて載っています。よろしかったらその本をお送りしましょう」とあった。
その作家は知らない間に自分が剽窃を行ったのかと悩み、その夜は眠れなかった。
そしてマーク・トゥエインから送られてきた本はオックスフォード大辞典だった。ちゃんちゃん!
 

テーマ : BL小説書きの日記
ジャンル : 小説・文学

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